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自分自身で神を見る © John Stemmons, Amazing Grace Church, Fujisawa, Japan - 091608 |
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神の心への旅路にあって、幾つかの標石がありますが、これらは神を追い求める者が度々体験することであると私は思っています。それらの標石とは:
1) 新生すること 2) 神の*御意志を学ぶこと 3) 神に従うことを学ぶこと 4) 神を個人的に知ること 5) 自分自身で神を見ること 神を見ることで、内にある大きな傷が明らかにされ、神に癒されます。次のみことばが語っているのは、このことだと私は信じています: 申命記 32: 39c. わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。 新生することは本当にシンプルで、文字通り、福音に対して "ハイ" と言って同意するだけです。 永遠のいのちは無償の賜物として与えられます。 ローマ 5:15-17; エペソ 2:8-9; ローマ 10:9 神の*御意志を知らなかったら、神に従うことは明らかに不可能です。 多くの人は、何であれ自分のしたいこと好きなことは、当然神の*御意志であると思い込んで、ただ自分自身の延長を神としているのです。 クリスチャンであろうがなかろうが、どうせ自分がしたい事であるなら、誰でもいつも神の*御意志の通りの事をします。 ところが、神の*御意志は、私たちの意志と異なっていることが多々ありますから、人が神の*御意志を知らなかったら、まるで新生していないかのように、自分を他の人たちと見比べて生きていくのです。 そういう人たちは、神が楽しむために与えてくださったクリスチャンの生き方を逃してしまいます。 ローマ 12:1-2; 第2 コリント 10:12 神に従うことを学ぶことには、霊とたましいの間にある戦いに勝利することが必然的に含まれます。 ローマ 8:5-8. 私たちには、"自分の悟りに頼るな"との警告が与えられ、"見るものによってではなく、信仰によって歩みなさい"と語られています。 箴言 3:5; 第2 コリント 5:7. 生まれながらの感覚や、常識と呼ばれているもので、私たちはしくじりますが、神は裏切りません。 神の心への道は、唯一、信仰の従順だけです。ローマ1:15,16:26. 不従順な時に、救いを失うわけではありませんが、神を知ることにも見ることにも前進がありません。 神が私たちに従順を望むのは私たちの益だからです。 神の益になるからではありません。 神に従うべきであるのは、何かありもしない"義務"を果たすためではなく、私たちの益となることを神が教えてくださるからなのです。 永遠のいのちが"無償の賜物"と語られているのですから、神に従うことがどうして"義務"でありうるでしょう ? ローマ5:15-18, エペソ2:8-9. 神を個人的に知ることは、深淵な体験ですから、その体験をしたい人、成長したい人、またそういうことを知らない人にまで分ち合いたいことです。 神を個人的に知るには、神を切望し追い求め、神の*御意志を知って従うことで可能となってきます。 神を個人的に知らない者たちは、神の*御意志を知っている者が持っている確信に対し、しばしばイラつきます。 自分が神を知らないので、神を個人的に知っている者と神の間にある関係を憤慨します。 パリサイ人がイエスを嫌悪したことも、神との関係は働くが、宗教は何の働きもしないことを現しています。 自分自身で神を見ることは、神の民の心からの望みであり、聖書の最古の書ヨブ記から始まっています。ヨブ 19:25-27; マタイ 5:8. 神を見ることは、危険な提案ですが、私たちはそれに備えるべきです。 神を見る時に、本当の自分の姿を見るでしょう。 そしたら、救い主だけが癒すことのできる傷があらわになります。 問題があることに気づくまで、答えも役立ちません。 神を見た人たちには、共通点があります … 彼らの生き方が永遠に変わったことです。 聖書の中に登場する多くの人々に加えて、今日もそのような人々が大勢います。 これは、神の一番高い召しであり、いのちの意義目的そのものであると私は信じています。 神を自分自身で見ることほどに、私たちの知性や感情を満足するものはありません。 これはあなたへの私の祈りです。 あなたが神を切望するなら、神はご自身をあなたに現れてくださり、あなた自身が神を見ることができます。 *“御意志”と訳した言葉は、通常“みこころ”という言葉が用いられていますが、“神の心”との混乱を避けるためにあえて御意志と表現しました。 |
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