Amazing Grace Church
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全人的神の救い ©
Pastor John Stemmons, アメージンググレースチャーチ, 藤沢

クリスチャンであれ不信者であれ、死とは存在が無くなることでなく、常に“分離”を意味します。肉体の死は霊とたましいが体から分離することであり、霊の死は、人間の霊が神の霊から分離していることなのです。霊の死とは、神のいのちを持たないで人間の霊が存在している状態です。人間は神の似姿に創られた、つまり、体の内側に霊とたましいが生きている三位一体の存在です。神はこれら各部分を救う、全人的な救いを与えてくださいました。

第1テサロニケ 5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

聖書では、霊とたましいを、骨髄と関節に例えています。骨髄では赤血球や白血球が造られます。骨の内側にある骨髄のように、人間の霊はたましいと共に働きます。

ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ひとが霊的に新生できるように、イエスは霊にあっても死なれました。これは、イエスが私たちの代わりに罪となられた時に起こりました。罪から来る報酬は霊の死であり、霊の死が体の死をもたらしたのです。イエスは殺されたのではなく、自らの意志でいのちをお捨てになったことは特記すべき重要なことです。

ヨハネ 10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。

十字架の上で、全世界の罪を負われて罪となられた時、まず霊的に死なれました。

マタイ 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

この後に肉の死が続きます。

マルコ 15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。

イエスの霊的な死との同一化によって、私たちは新生します。

エペソ 2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
V.:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・
V.6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

誓約によって、私たちはイエスと立場を交換します。イエスは私たちが負うべきものを負ってくださり、ご自身が受けるべきものを私たちに与えてくださいました。

2コリント 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イエスがのろいとなられたので、新約(新しい誓約)の下にはのろいがありません。すべての罪に対する代償は既に支払われました。 同じ罪を二度罰するのは不正なことです。

ガラテヤ 3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

この地のちりは未だにのろいの下にあり、私たちの肉体は地のちりから出来ています。こののろいはイエスが再臨するまで解かれません。だから肉体は、空腹、疲労、病気、怪我、老化、死などの問題にさらされています。こののろいの下にある体を天国に連れては行かれないので、これらの制限がない復活の体を神が与えてくださいます。(第1コリント 15:42 〜 44 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。)

イエスの霊は死者からよみがえられました…丁度私たちの霊が新生した時のように。イエスが死者からよみがえられた時に復活のからだをお持ちでした。神との結びつきを回復するために、イエスは霊的によみがえられ、初穂となられたのです。

第1コリント 15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

私たちがこの世に生まれたばかりの時は神と結びついていました。

ヨハネ 1:9 (KJ訳) 彼はこの世に来るすべての者を照らすまことの光である。

しかし、罪という隠れた欠陥が表面化して、私たちが意図的に罪を犯した時、神との結びつきを絶ってしまいました。

ローマ 7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。

イエスはまさしく、この断絶を治すために来られたのです。それは、誓約を通してなされたので、私たちもイエスを救い主と認めなければなりません。結婚という誓約も、“はい”と合意がなされない限り有効にならないのと同じです。これは自由意志による行いでなければなりませんが、この無償の贈り物を受け取るための資格は何もありません。クリスチャンになるために不信者が罪を告白することは、まったく非聖書的です。ところがこの誤った伝統がしっかり根付いるので、多くのクリスチャンは、不信者が罪を告白しなければならないと固執します。 しかし、神の前に罪を告白できるのは、実際祭司のみであり、不信者は祭司ではありません。聖書の中では、誰一人新生するために罪を告白している者はいません。悔い改めはします。しかし罪の告白ではありません。罪を告白できるのは、新生した後なのです。新生する前は、神との関係がないからです。事実関係が無いことが一大問題だったのです。もし仮に不信者が神の前に罪を告白できるのだったら、新生する必要もないことになります。それは既に神との関係を持っているということになるからです。悔い改めと罪の告白はまったく別個のことなのです。

罪の性質を持っていることと、罪を犯すことはまた別のことです。罪の性質を持って生まれてくることと、罪の行為を行うことは同じではありません。妊娠中絶で殺されてしまった赤ちゃんたちに朗報があります。赤ちゃんで死んでしまった人たちは、罪を犯したことがないので天国に行きます。同様に赤ちゃんは自分の意志で誓約にはいることも出来ません。親の霊的状態によるのでもありません。
エゼキエル 18:4 見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。

救いの段階性は、聖句を通して見ることができます。まず最初は霊です。

第2コリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

たましいの救いは、全生涯をかけてなされます。
ヤコブ 1:21b みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
第1ペテロ 1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

天でイエスが完成させてくれます
ピリピ 1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
ヘブル 12:2a 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

そして復活のからだは、イエスが戻って来られる時に与えられます。
第1コリント 15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
V.43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
V.44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。




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